沖縄の斧

最終更新日:2010.08.27

  • ウーヌ

    ウーヌ

  • ティーン・ユーチ

    ティーン・ユーチ

  • 1950年代のウーヌを使った作業風景(エグバート・H・ウォーカー博士撮影写真より)

    1950年代のウーヌを使った作業風景(エグバート・H・ウォーカー博士撮影写真より)

  • ティーンを使った作業風景(当館蔵サバニづくり映像より)

    ティーンを使った作業風景(当館蔵サバニづくり映像より)

斧は、人類が最も長く使い続けてきた道具の一つと言われています。沖縄でも、斧は古くから人々のくらしと密接に関わってきました。沖縄県内各地の遺跡からは、石で作られた斧(石斧:せきふ)が数多く発見されています。沖縄の湿潤な亜熱帯の風土が育む、鬱蒼とした照葉樹の森を切り開くには、斧は欠かすことの出来ない道具だったことでしょう。

また、弥生並行時代のうるま市宇堅貝塚などでは鉄斧(てっぷ)が発見されていることから、約2000年前頃には沖縄にも鉄器文化が到来していたことがわかっています。一方、縄文文化や弥生文化と直接的な交流がなかったと言われる宮古・八重山の先島地域では、約2000年前頃にシャコガイで作られた貝斧(かいふ)を使う文化が現れます。この文化は土器をもたないことから、無土器文化と呼ばれています。貝斧はフィリピンなど東南アジアにも見られることから、先島無土器文化の貝斧は南方との関わりが考えられています。

沖縄の伝統的な民具に見られる斧には、ウーヌ(斧)、ティーン(手斧)、ユーチ(ヨキ)などの区別があり、用途によって使い分けられていました。特に、ウーヌと呼ばれる大型の伐採用斧は、日本本土の斧には見られない形式のもので、沖縄の斧の代表例と呼べるものです。ウーヌは、鉄製刃を組み合わせ式の柄に装着するもので、日本本土でも中世頃にはこれとよく似た形の斧が使われていたことが分かっています。日本本土では早くに廃れてしまったものが、沖縄ではごく最近まで使い続けられていたようです。

ティーンはいわゆる手斧で、日本本土の民具の中にも、ほとんど同じ形のものが見られます。ユーチは鉄製の刃に柄を通すための孔を設けたもので、この形式の斧は、現在、山仕事などの場面でもっとも広く使われています。

斧の最も主要な役割は、木材の伐採、加工でしたが、明治時代に鋸(のこぎり)が導入されると、斧の役割は限定されていったようです。それでも、製材や大工仕事、薪割りをはじめ、サトウキビの収穫、石工、鍛冶などさまざまな場面で斧が使われてきました。沖縄の植物研究に取り組み、数多くの記録写真を残したエグバート・H・ウォーカー博士が撮影した、1950年代のヤンバルでの山仕事の風景写真には、ウーヌを使った大工仕事の様子が写されています。また、現在でもサバニ(木造の漁船)の製作には手斧が使われているということです。

考古資料や民具だけでなく、文献史料にも斧が登場します。朝鮮の歴史書『李朝実録』中に見える、1477年の朝鮮人の与那国島見聞記には、「草や禾を刈り取るのに斧を用いている」と記されています。17世紀に編集された『おもろさうし』中には「やまぐすくたたみきよ まちやよす けずれ いしらご けずたる きよらや いしおうの こので かなおうの こので」と記され、石工の「まちやよ」が斧を用いて、山城の貴人(たたみきよ)のために石を削る様子が謡われています。また、幕末の奄美の風俗を記した『南島雑話』には、ティーンを用いて木材を加工する作業風景が図示されています。この絵に描かれた人物は、座った状態で斧を使っています。同じ斧でも、昔と今とでは使い方も違っているようです。このほか、明治26(1893)年、沖縄の島々をめぐり、『南島探験』を著した笹森儀助は「・・・黒島ノ一人民雷斧石ヲ棒切ノ中間ニ挟ミ之ヲ太キ薪ニ当テ石ヲ以テ打テ薪ヲ割ルアリ・・・」と記しており、19世紀末の黒島では薪割りの際の楔(くさび)として石斧が使われていたようです。

現代では斧は鋸に替り、鋸はチェーンソーに取って替られましたが、沖縄では今でも斧は現役です。サトウキビの刈り取りやサバニの製作、おみやげの黒糖を割るのにも小型の斧が使われることがあります。これからも、沖縄では斧と人類のつきあいは長く続いていくことでしょう。

  • 『おもろさうし』に見る斧

    『おもろさうし』に見る斧

  • 『南島雑話』に見る斧

    『南島雑話』に見る斧

  • 黒糖割り用の斧

    黒糖割り用の斧

主任 山崎 真治

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